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『コボちゃん』を例に
思考のパターンを整理する試み
(2)アナロジー

 目次

4項間のアナロジー

 『コボちゃん』を例に思考のパターンを整理する試み(1)メタファーに続き、やはり『コボちゃん』を例に、「アナロジー」について説明する。

 たとえばAには非常にわかりやすくアナロジーが描かれている。

A

出典『コボちゃん』植田まさし/蒼鷹社
©UEDA Masashi

 コボちゃんの母サナエは、ネコに尻尾を押さえられたトカゲが、自らその尻尾を切り離してネコから逃げる様子を見ている。その後同行していたコボちゃんが、露店売りされていたオカヤドカリを見てそれを買って欲しいとサナエにねだる。そのときコボちゃんはサナエのエプロンのひもを引っ張るのだが、それによって結び目がほどける。コボちゃんの手にはエプロンだけが残り、サナエは歩き去ってしまう。

 アナロジーは日本語で「類似」と訳されるが、なんの類似なのかと言えば「関係性」の類似である。

 Aでは、ネコとトカゲの関係性と、コボちゃんとサナエの関係性が類似している。ネコに尻尾を押さえられたトカゲが自らそれを切り離して逃げるように、コボちゃんにエプロンのひもを掴まれたサナエは、エプロンを“犠牲”にしてコボちゃんのおねだりから逃げる。ネコの前足にはトカゲの尻尾だけが残り、コボちゃんの手には母親のエプロンだけが残る。

 このアナロジーを“式”に表わしてみると

ネコ:トカゲ ≒ コボちゃん:サナエ

 となる。
 式の左辺でも右辺でも、左の項が「捕まえる側」、右の項が「逃げる側」になっている。

 トカゲが尻尾を切って逃げる様子をサナエが見ていなかったのであれば、これは単に作者がアナロジーを行い、読者もアナロジーだと理解するだけになる。だがサナエはそれを見ている。するとサナエは、トカゲの戦略を参考にしていると言える。このときサナエは思考としてアナロジーを行っていることになる。

 次のBもアナロジーの例だと言える。

B

出典『コボちゃん』植田まさし/蒼鷹社
©UEDA Masashi

 コボちゃんは、赤ちゃんがくわえているおしゃぶりを取ってみる。すると赤ちゃんは泣いてしまう。このとき、コボちゃんは赤ちゃんとおしゃぶりの関係性について学んだと言える。その後駅のベンチで座っているコボちゃんは、となりの男性がパイプをくわえているのに気づく。すでに赤ちゃんとおしゃぶりの関係性について学んでいたコボちゃんは、男性とパイプの関係性にも学んだことが当てはまるのではないかと推測する。このときコボちゃんは思考としてアナロジーを行っていることになる。そしてその推測が正しいのかを確かめてしまう。結果は、それが間違っていたことをこの回は描いているわけだ。

 ここでメタファーとアナロジーの違いを明確にしておく。メタファーは『コボちゃん』を例に思考のパターンを整理する試み(1)メタファーで解説したように、「述部」の共通性に着目することだった。「丸い」何かを見て別の「丸い」ものを連想したり、「シワシワ」のものを見て別の「シワシワ」のものを連想したりする。「Aの述部とBの述部は同じである、だからAはBである」というプロセスが頭の中で行われる、これがメタファーであった。このプロセスで“もの”は2つしか出てきていない。

 一方、アナロジーは基本的に「AとBの関係性は、CとDの関係性のようなものだ」と考えるプロセスだと言える。このとき“もの”すなわち「項」はA、B、C、Dの4つ出てきている。そのためこれを「4項間のアナロジー」と呼ぶことにする。

原始的なアナロジー

 グレゴリー・ベイトソンはメタファーと同じく、アナロジーも原始的な思考だととらえていた。例えば『天使のおそれ』の中でオオカミ同士のコミュニケーションでそれが観察されたことを報告している。

 あるとき、シカゴのブルックフィールド動物園に手ごろな大きさのオオカミの群れを見に行ったことがある。群れのうち10匹は一日中ごろ寝をしているのだが、11匹目のボスの牡は、しじゅうあたりを見まわるのに忙しい。さて、自然状態のオオカミは、狩りから帰るといったん腹のなかの獲物を全部吐きもどして、狩りについて行かなかった子どもたちと一緒に食べ直すということをするのだが、そのさい子オオカミは大人たちに吐きもどしてくれという合図を送ることができる。けれども、大人のオオカミはやがて、子どもたちを吐きもどした食物から卒業させるために、開いた口を子オオカミの首根っこにあてて地面に這いつくばらせるようになる。ふつうの飼犬の場合も、母イヌは子イヌを離乳させるのに同じやり方をする。
 シカゴではその前年、ある若い牡が牝オオカミの一頭と交尾に成功する事件があったという。(注・オオカミの群れではオスとメスそれぞれに序列がある。基本的に序列トップのオスとトップのメス同士しか交尾できない)すると、そこへボスの牡が飛んできたのだが、ひどい体罰を加えるかと思いきや、その年少の牡オオカミの頭をいま述べたのと同じやり方で一度、二度、そして四度まで地面に押しつけただけで歩み去ったそうだ。そこでかわされたコミュニケーションは隠喩的なものだった。

『天使のおそれ 聖なるもののエピステモロジー』
グレゴリー・ベイトソン+メアリー・キャサリン・ベイトソン
(青土社)星川淳訳より

 この例では、オオカミにおける親子の関係性と、ボスと若い牡オオカミの関係性がアナロジーになっている。その若いオオカミもかつて子供のころ、“吐きもどし離れ”の際に親から首根っこを噛まれて地面に押しつけられていたのなら、ボスのメッセージが理解できたであろう。このときボスは若いオオカミに対して「俺とお前の関係性は、親と子のようなものなのだ。調子に乗るな」と言葉を用いずに伝えているわけだ。つまり、動物もまたアナロジーを用いると言える。アナロジーは原始的な思考と言えるわけだ。

母犬のエサを取ろうとした子犬が父犬に怒られている。
父は子を前肢で押さえつけている。

トイプードルにしつこく迫るダックスフンドが、大きな犬に怒られている。大きな犬はダックスフンドを前肢で押さえつけている。もし2頭とも子供のときに親にこうして怒られていたのなら、2頭の関係は親子の関係になぞらえられていることになる。

3項間のアナロジー

 次のCもアナロジーと言えるがA、Bとは少し違うはずである。

C

出典『コボちゃん』植田まさし/蒼鷹社
©UEDA Masashi

 犬のポチはコボちゃんにお手や伏せの芸を仕込まれている。それを見ていたコボちゃんの友達は「よくしこんであるねー」と言う。その後、散歩中のポチが肉屋の前にやってくると、コボちゃんの父コウジに向かって吠える。するとコウジがポチのための骨を買ってくれる。それを見ていた他の犬がポチに向かって「よくしこんであるねー」と言う。

 このとき、コボちゃんとポチの関係性は、ポチとコウジの関係性に喩えられている。“式”にしてみると

 コボちゃん:ポチ ≒ ポチ:コウジ

 になる。式の左辺では右の項だったポチが、右辺では左の項になっている。コボちゃんとポチの関係性の中ではポチが「命じられる側」だったのに対し、ポチとコウジの関係性の中ではポチが「命じる側」になっている。ポチは関係性によって「命じる側」になったり「命じられる側」になったりする。同じ項が関係性によって違う役割を演じているわけだ。(実際にはコウジはポチに命じられているのではなく、骨を欲しがっていることを理解して買ってくれているだけだが)

 このときアナロジーで結ばれるのはコボちゃん、ポチ、コウジの3つだけだから、これは「3項間のアナロジー」と言える。この場合「AとBの関係性は、BとCの関係性のようなものだ」という形になっている。

プラトンが用いたアナロジー

 どうも、哲学や芸術の世界を見渡すと、4項間のアナロジーよりも3項間のアナロジーのほうがより相性がいいようだ。

 たとえばプラトンは、その著書『国家』の中でいくつかの比喩を用いて言いたいことを表現している。だがそれらの比喩は正確にいえばアナロジーであり、さらに言えばそれは4項間ではなく3項間のアナロジーである。

 プラトンに言わせれば、哲学の目的は「イデア」の世界に意識を向け、そこにある永久不滅の存在であり最高の美である「善のイデア」を直知することである。プラトンはそれをいわゆる「洞窟の比喩」をもって説明する。

 その比喩によれば、我々は洞窟の奥で、鎖で縛られている囚人である。そして洞窟の中で焚かれる火の明るさで、洞窟の壁に影絵を映し出している者がいる。我々は生まれてからずっと、その壁に映った影絵しか見えないように頭を固定されている。そのため我々はその影絵が世界そのものだと錯覚している。

 だがあるときその鎖がほどかれる。そしてはじめて火の方へ振り返りその眩しさに驚愕する。そしてさらに洞窟の入り口に向かって進んでいく。進むにつれて太陽の明るさに気づく。そしてついに地上に出た時、今まで地下で生きていた我々の目はその明るさに全く対応できず、最初は何も見えない。だが次第に目が慣れてきて地上の様子がわかってくる。そして最終的には太陽そのものを直視できる。

 これと同じように、地上に生きている我々は生まれてからずっと目に見えている世界が世界そのものだと錯覚している。だが実は目に見える世界は幻に過ぎず、他に真実の世界がある。だがその世界は“眩しすぎて”いきなり全てを知ることはできず、徐々に慣らして知っていくしかない。そして最終的に「善のイデア」を知るときが来る。それが哲学とその目的だとプラトンは言う。 

「洞窟の比喩」のアニメーション

 つまりプラトンは、我々が善のイデアを知ることは、地下にいた囚人が地上に出て太陽を直視するようなものだと言いたいわけだ。だが我々はすでに地上で暮らしている。そして肉眼で太陽を直視することも短時間ならできる。喩え話の中に、地上で生きる我々自身が登場するわけだ。

 地下、地上、イデアの世界の関係性を“式”に表すと

 地下:地上 ≒ 地上:イデアの世界

 となる。つまり3項間のアナロジーであるわけだ。
 哲学と3項間のアナロジーの密接な関係を指摘できる。

『ゴッドファーザー』のロゴマーク

 傑作映画『ゴッドファーザー』のタイトルロゴには「操り人形を操る手」が描かれている。だがこの作品中に、誰かが人形を操る場面など出てこない。ではなぜそれが描かれているのだろうか。

『ゴッドファーザー』のタイトルロゴ
出典『ゴッドファーザー』
©1972 Paramount Pictures.

 1つ目の理由として考えられるのは、テーマになるイタリアの文化がある。この映画は、シチリアにルーツのあるマフィアのファミリーが主役である。彼らはアメリカ人だが、シチリア流の家族文化の中で生きている。そのシチリアには伝統的な操り人形の芸能があるのだ。ロゴマークに描かれた手は、これを象徴している可能性がある。つまり彼らはシチリアにルーツがあり、その家族文化を守りながら生きていることを象徴していると言える。

シチリア伝統の人形劇 Opera dei Pupi の動画

この人形劇は無形文化遺産にも登録されている

 2つ目は、彼ら自身の生き方と価値観を表している可能性がある。彼らは裏社会で大きな力を得て、それによって社会や民衆を「操る」側になることに価値を置いている。そして最終的には政治など“表”の世界への進出を理想としていることがセリフでも示されている。
 だが、そんな彼らは家族を抗争で失ったり、親族間で争ったりと過酷な運命に翻弄される。言ってみれば、彼らの運命は神によって操られている。つまり社会や民衆を操ろうとする彼ら自身が、神によって操られていることの象徴としてロゴマークに手が描かれていると解釈できる。

 “式”に表わしてみると

 神:ファミリー ≒ ファミリー:社会

 となる。彼らは「操る側」でもあり「操られる側」でもある。
 するとこのロゴマークは、この3項間のアナロジーを「人形を操る手」の絵によって象徴的に表し、さらに彼らのルーツまで暗示していることになる。そういう意味では実はかなり高度な表現だったと言える。

 傑作映画と3項間のアナロジーの密接な関係が指摘できるわけだ。

黄金比と3項間のアナロジー

 黄金比とは、ある長さの線分を2つの部分に分けたとき

「全体の長さ(W):大きな部分の長さ(L)=大きな部分の長さ(L):小さな部分の長さ(S)」

になるときの比例である。

 この定義を見ると、式の左辺では右の項である「大きな部分」は、右辺では左の項であることに気づく。これは今まで指摘してきた3項間のアナロジーと同じである。

 比のそれぞれはまさに関係性である。比例は2つの比が「等しい」という関係で結ばれる。一方アナロジーは2つの関係性が「似ている」と言うに過ぎない。両者はこの点がはっきり違っている。だがどちらも「関係性同士の関係性」について語っているのは同じである。

 黄金比を抽象化してその近似値を「1:1,618」とし、その比になっていれば美しい、とする説があるが、これは黄金比の本質を全く見失っていると思える。なぜなら、これは単なる関係性でしかない。「1:1,618」は「比」あるいは「比のようなもの」でしかない。だが黄金比とは先述したように「関係性同士の関係性」、つまり「メタ関係性」である。グレゴリー・ベイトソン風に言えば、関係性とメタ関係性は「論理階型」が違う。論理階型が違えば、語っているものはまるで違う。論理階型が違うものをごっちゃにしてしまうと、最悪パラドックスが発生してしまう。「ラッセルのパラドックス」は「集合」と「集合の集合」をごっちゃにしたときに起きたのだった。実際ラッセルは関係性のパラドックスも紹介している。そのため論理階型が違う関係性とメタ関係性は明確に区別する必要がある。

 難しい話ではなく平たく言っても、関係性よりもメタ関係性のほうがよりデリケートであるはずである。もし黄金比になっているものが美しいのであれば、それはそのデリケートさと関連があるはずである。我々がそのデリケートさを心のどこかで感じ取るからこそそれが美しいのであって、「1:1,618」という単なる比を感じるから美しいのではないだろう。

 黄金比は生物・無生物を問わず自然界の形成との関連も指摘される。一時期流行っていた「フラクタル」の概念も、3項間のアナロジーに通じるものがあると思える。

 以上で、『コボちゃん』を例にしたアナロジーの説明を終える。続いて「帰納」の説明をするつもりである。

◯引用文献

・グレゴリー・ベイトソン&メアリー・キャサリン・ベイトソン
『天使のおそれ-聖なるもののエピステモロジー』(星川淳訳 1992年)青土社
新版 天使のおそれ―聖なるもののエピステモロジー | Amazon

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@ 2024 Jiro Nakamura
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