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『コボちゃん』を例に
思考のパターンを整理する試み
(3)演繹と帰納

 目次

演繹の例 

 『コボちゃん』を例に思考のパターンを整理する試み(2)アナロジーに続き、演繹と帰納について説明する。

 帰納について説明するつもりだったのだが、どうも純粋に帰納と言える例が見当たらなかった。だが帰納のあとに演繹を行っている例はいくつかあったので、まず演繹について説明する。

 たとえばAは演繹の例だと言える。

A

出典『コボちゃん』植田まさし/蒼鷹社
©UEDA Masashi

 ここでコボちゃんが行っている思考過程を書き出してみると、

干してあるものは水に入れると元に戻る。
煮干しは干したものである。
よって、煮干しを水に入れると元に戻る(生き返る)。

 となる。これはまさに、演繹の特徴である「三段論法」に他ならない。三段論法ではまず、ある集合についての特徴が述べられる。ここでは「干してあるもの」という集合に当てはまる「水に入れると元に戻る」という特徴について母親の口から語られる。

 それを聞いたコボちゃんは、「煮干し」もまた干したものであると考える。煮干しは「干してあるもの」という集合に属する要素だと考えたわけだ。
 そして煮干しも干してあるものである以上、水に入れれば元に戻るはずだと考えてそれを実行する。

 コボちゃんは「元に戻る」という言明を「生き返る」という意味に解釈しているようにも思える。水に入れた煮干しが生きた魚に戻って泳ぎだすことを期待しているニュアンスが感じられる。

 だが実際には、煮干しはその名前通りただ干してあるのではなく、干す前に茹でている。(煮干しはカタクチイワシを茹でたあと干したものだ)そのため水に入れても、多少はふやけるかもしれないが、元の魚の形に戻ることはないし、当然生き返りはしない。

 コボちゃんが演繹によって導き出した結論が間違っていたのは、
・干してあるものは水に入れると元に戻る。
・煮干しは干したものである。
 という2つの前提のうち2つ目が間違っていたからだ。
 演繹によって正しい結論が出るのは、2つの前提がどちらも正しい場合だけである。

 Bも干物に関する演繹の例である。

B

出典『コボちゃん』植田まさし/蒼鷹社
©UEDA Masashi

 やはりコボちゃんが行っている思考の過程を三段論法に表すと、

干した物はうま味が出る。
洗濯物は干した物である。
よって、洗濯物からはうま味が出る。

 となる。まさに演繹である。
 だが、コボちゃんが導き出した演繹の結論は再び間違っていた。2つの前提のうちどちらが間違っていたのかといえば、今度は1つめの「干した物はうま味が出る」という言明だろう。ここでいう「干した物」とはあくまでも食べられるものに限った話だったのだが、コボちゃんは食べ物以外にも拡大してしまった。

 演繹によって正しい結論を得るのはなかなか難しいようだ。

帰納から演繹へ

 次のCはどうだろうか。

C

出典『コボちゃん』植田まさし/蒼鷹社
©UEDA Masashi

 ここでも、コボちゃんは演繹を行っているはずである。その過程は、

カビが生えた食べ物は捨てるべきである。
このチーズはカビが生えた食べ物である。
よって、このチーズは捨てるべきである。

 となる。しかし、「カビが生えた食べ物は捨てるべきである」という1つ目の前提はどうやって得られたのかといえば、それはまさに「帰納」によって得ている。

 コボちゃんは冷蔵庫の中にチーズを見つける前に、祖母と母親がそれぞれカビが生えた食べ物を見つけ、そしておそらくそれを捨てる様子を見ている。それによって「カビが生えた食べ物は捨てるべきである」という1つの知見を得たのだろう。その過程を書き出すと、

カビの生えた饅頭は食べられないから捨てる。
カビの生えたパンは食べられないから捨てる。
饅頭もパンも「食べ物」である。
よって、カビの生えた食べ物は食べられないから捨てる。

 となる。饅頭とパンに当てはまる性質は、饅頭とパンが属する集合全体にも当てはまるだろう、とコボちゃんは考えたわけだ。これはまさに帰納である。

 演繹ではまず集合全体に関する知識があり、次にその集合に当てはまる性質をその集合に属する要素に当てはめる。一方、帰納は個々の要素に共通してあてはまる性質は、その要素らが属する集合全体にも当てはまるだろうと推測する。

 演繹-集合に当てはまることは要素にも当てはまると考える。
 帰納-要素に当てはまることは集合にも当てはまると考える。

「集合」と「要素」についてちょうど逆になっているわけだ。

 A、Bでは、コボちゃんが演繹の前提にしたある知識は、どちらも他人から与えられたものであった。だがこのCでは、コボちゃんが演繹の前提にするその知識は自分で得たものである。そしてそれは帰納によって得ている。コボちゃんは帰納によって得た知識を、今度は演繹の前提にしているわけだ。

 次のDはどうだろうか。

D

出典『コボちゃん』植田まさし/蒼鷹社
©UEDA Masashi

 ここでコボちゃんが行っている思考を三段論法に表わしてみると、

公園には遊具がある。
国立公園は公園である。
よって、国立公園には遊具がある。

 となる。きれいな三段論法ではある。だがコボちゃんが導き出した結論は正しくない。2つの前提のうち最初の「公園には遊具がある」が間違っている。

 その「公園には遊具がある」という知見は、誰かに与えられたものではなく、おそらくコボちゃん自身がその経験から得たものだろう。たとえば、

X公園には遊具がある。
Y公園にも遊具がある。
Z公園にも遊具がある。
X公園もY公園もZ公園も「公園」である。
よって、公園には遊具がある。

 といった過程で得たものだと思われる。コボちゃんが知っている個々の公園について当てはまることは、公園全体にも当てはまるだろう、と考えているわけだ。まさに帰納である。そしてその帰納によって得た知見を、今度は演繹の前提にしている。その意味では前掲のCと同じだと言える。Dでは、描かれているのは演繹の過程だけだが、その演繹の前提になる知識は事前に帰納によって得ていたことを暗示しているわけだ。

便利で厄介な演繹と帰納

 この演繹と帰納にどんなメリットがあるのかといえば、それを行うことであるものについての性質を逐一調べる必要性がなくなることにある。

 たとえば「日本人は真面目である」という集合についての言明が正しいかどうかを確かめるためには、全日本人が真面目かどうかを調べる必要がある。しかしそのようなことはとてもしていられない。演繹や帰納は、それらの手間を省略し、“とりあえず”集合や要素について判断を持てる思考パターンなわけだ。グレゴリー・ベイトソン風に言えば、それによって精神が経済性を獲得できる。

 この演繹と帰納は、集合と要素の間で判断を移行させることだと言えるが、判断だけではなくシンプルな好悪の感情も移行する。

 たとえば、あるアイドルグループに属する特定のメンバーのファンになったとする。すると大抵の場合、そのメンバーへの好意はグループ自体への好意にも移行するように思える。
 逆に、ひいきにしているスポーツチームに新たな選手が入ってきたとき、チーム自体への好意はその新たな選手へも移行しやすいだろう。
 前者は帰納的な好意の持ち方だと言え、後者は演繹的な好意の持ち方だと言える。

 だが好意が移行するということは、当然嫌悪の感情も移行する。つまり、ある要素を嫌いになった人が、その要素が属する集合全体まで嫌いになることがある。逆にある集合に対して嫌悪感を持つ人が、個々の要素についてはよく知らなくても、その要素を嫌うことがある。

 これは厄介な現象である。たとえば多くの差別はこういった思考過程で生じるものと思える。もし集合と要素の間で判断や感情を移行させることができなければ、差別の多くも生じないに違いない。だがその一方で、全要素を調べ尽くすまでは、つまりひたすら実証的でいなければ、集合についても要素についてもなにも判断を持てない。差別は精神が経済性を獲得する際に生じる副作用のようにも見える。
 この意味で演繹と帰納は便利ではあるが、同時に厄介でもあり、その“扱い”には慎重さを要する。

 一般的にこの帰納や演繹は「論理的思考」と呼ばれる。かつては人間にしか論理的思考はできないと考えられていたが、現在では魚まで含めた幅広い生物にもできることがわかっている。(※1)今後の研究が待たれる思考パターンである。

 次に『コボちゃん』を例にして「アブダクション(仮説形成)」について説明するつもりである。

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@ 2024 Jiro Nakamura
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