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『コボちゃん』を例に
思考のパターンを整理する試み
(1)メタファー

 目次

思考パターンの種類

 人間と動物がとる行動の何割かは思考に基づいている。

 熱いものに触って手を引っ込めたり、何かが目の前を横切ったので顔を避けたりする行動は別に思考に基づいてはいない。だが少なくとも人間の文化や文明は、思考に基づく行動が集積した結果である。 

 その思考のパターンは基本的に次のように整理できる。 

・メタファー(比喩)
・アナロジー(類似)
・帰納
・演繹
・アブダクション(仮説形成)

 この並びは、わたしが考える「無意識的に行われる順」である。一般的に上のものほど無意識的に行われ、下のものほど意識的に行われる。 

 これら基本的な思考パターンのそれぞれがどういうものなのかを理解し整理できているかどうかで、その人自身の思考の鋭さは違ってくる。さらに言えば、その理解と整理ができていれば、他人が何らかのアイデアを主張しているとき、それがどういう思考パターンに基づいているのかもわかるようになってくる。 

 ではどうすればこれらをわかりやすく把握できるかと考えていたところ、4コマ漫画である『コボちゃん』には、思考パターンそれぞれの例が明確に表れている回があることに気づいた。

『コボちゃん』に見るメタファーの例

 たとえばAには、明確に「メタファー」の例が表れていると思える。

A

出典『コボちゃん』植田まさし/蒼鷹社
©UEDA Masashi

 コボちゃんの母である「サナエ」は、息子たちが遊んで散らかした碁石を拾う。そしてその黒い碁石を見ているうちに石焼き芋を焼く「石」を連想し、実際に石焼き芋を買いに行く。

 このとき、サナエの頭の中で起きたプロセスをグレゴリー・ベイトソンが正式な三段論法とは別に「草の三段論法」と呼んだ“メタファーの論理”で表すと、 

「碁石」は黒くて丸い
「石焼き芋の石」は黒くて丸い
「碁石」は「石焼き芋の石」である。 

 となる。
 精神が何かを認識するとき、一般的にそれが「何であるか」=主部、とそれが「どうなっているか」=述部に分けて認識される。メタファーは基本的に「述部の共通性」に着目し、それを結びつける思考である。我々の精神は、それが正しいのかどうかにかかわらず、「述部が同じものは主部が同じである」と考えてしまうのである。 

 次のBもAとよく似ている。

B

出典『コボちゃん』植田まさし/蒼鷹社
©UEDA Masashi

 コボちゃんの父親である「コウジ」は、お風呂に浸かっているうちにシワシワになった息子の指先を見る。そして同じように表面がシワシワのサラミを連想し、酒のつまみとしてサラミを探す。その行動はメタファーがきっかけになっている。もしシワシワの指先を見てもメタファーが行われなければ、その後サラミを探していないはずである。
 だがその思考は意識的というより無意識的に行われたはずである。メタファーは意識の介入とは無関係に行ってしまう思考なのである。 

 そもそもメタファーは思考と言えるのか、と思う人がいるだろう。たとえば言語学や修辞学においてメタファーは修辞技法の一つなのかもしれない。だがわたしに言わせれば、メタファーは誰もが無意識的に行う思考だからこそ、発信者と受信者の間でメタファー、すなわち比喩表現を使ってもコミュニケーションが成り立つのである。

 たとえば「あいつは豚のようだ」とそれ自体に比喩表現であると示す情報がある場合が「直喩」、「あいつは豚だ」とそれ自体に比喩表現であると示す情報がない場合が「隠喩」である。直喩はまだしも、隠喩が使われた場合でも我々は瞬時にそれが比喩であると普通は理解する。それができるのも、メタファーは誰もが無意識的に行う思考だからであろう。 

 次のCDABとほぼ同じパターンである。CDでも、キャラクターは見たものから無意識的に食べ物を連想している。

C

出典『コボちゃん』植田まさし/蒼鷹社
©UEDA Masashi

D

出典『コボちゃん』植田まさし/蒼鷹社
©UEDA Masashi

夢辞典の“読み方”  “草の三段論法”

 睡眠中に見る夢はまさに無意識的な営みである。その夢は象徴にあふれている。その象徴とは、我々の多くが共通して、メタファーによって結びつけてしまうものだと言える。 

 たとえば、ヘビが出てくる夢を見て、ヘビは何の象徴なのかと夢辞典で調べてみるとする。すると「ヘビは生命力の象徴」と書かれていたとする。これは角度を変えてみれば、 

「ヘビ」は丈夫な生き物でしぶとい。
「生命力」があるものは丈夫でしぶとい。
「ヘビ」は「生命力」である。 

 といった「草の三段論法」を用いて、無意識はヘビと生命力を結びつけていると言えるわけだ。この意味で夢辞典とは、草の三段論法の過程を書かずに、その結論だけを書いて集めたものだと言える。 

 夢自体がなんであるのかという疑問も尽きないが、大昔からある一つの解釈として、無意識が意識に向かって何かを訴えているとする説がある。だがそれなら、なぜ無意識は言語を使った直接的なメッセージを意識に送ってこないのだろうか。

 その理由は、無意識は言語を持っていないからだと思える。

レヴィ=ストロースとベイトソン 無意識の“論理”

 だがかつて流行した構造主義や記号論では、「無意識レベルには言語構造がある」と主張していた。(無意識にも言語がある、ではなく、言語の「構造」がある、と主張していたのである。)構造主義は人類学者のクロード・レヴィ=ストロースからはじまっているが、これは自国の言語に誇りを持つフランス人らしい発想だったのかもしれない。
 一方、グレゴリー・ベイトソンにとって言語は明確に意識の産物であって、無意識が持つものではなかった。だが無意識には無意識なりの、意識のものとは違う「論理」があるはずだと考えていた。
 レヴィ=ストロースとベイトソンが明確に違うのはこの点である。前者は「無意識レベルにまで言語の構造が活きている」と考えるのに対し、後者は「無意識は言語を持たないが、無意識なりの論理を持っている」と考える。

 ベイトソンがメタファーを重視するのは、それが無意識的でもあると同時に原始的でもあると考えていたからである。
 ベイトソンはあるときサンフランシスコの動物園でカワウソを観察中、彼らが明確に「遊んでいる」と言える状況に遭遇した。カワウソたちの行動が「比喩的」としか解釈できない状況を観察したのである。
 たとえば犬の場合、人間や他の動物を本気で噛む場合もあれば甘噛みする場合もある。本気で噛むのは警戒や攻撃の意味になるだろう。ではなんのために甘噛みをするのか。ベイトソンに言わせればそれは「本当に噛んでるんじゃないよ」「偽物だよ」という意味になり、つまり「これは遊びだよ」「遊んでくれなきゃ本気で噛むよ」といった意味になる。

この動画内のコヨーテと猫は、明らかに本気で闘っている。

一方、この動画内の犬と猫は明らかに遊んでいる。
犬は猫を甘噛みし、猫は爪を立てていない。

 ベイトソンは、無意識は「Not」を持たないと強調している。何かを否定したくても、言語のように否定のサインを持たないため直接的に否定できない。だから無意識が何かを否定するためには「偽物」を示したり、あるいはある方向に導いておいてそれが上手く行かないことを示したりしなければならない。言語を持たない動物もNotを持たない。だから「本気で噛んでいる」ことを否定するために、彼らはその偽物を示す必要があるわけだ。そのとき犬の甘噛みには、比喩的な意味が込められていると言える。

 そもそも、動物による甘噛みになにか現実的・適応的な理由があるだろうか。歯を掃除するつもりで、あるいはかゆい歯茎をかくつもりで別の生物の身体に歯や歯茎を押し付けるのだろうか。それとも匂いをつけるなどのマーキングだろうか。もしこういった現実的かつ適応的な意味がその行動に見いだせないのなら、それらは比喩的な意味を持つ可能性が十分にある。 

メタファーとコミュニケーション

 A~Dの『コボちゃん』の例に現れていたのは、生物の一個体が「思考」として行うメタファーであった。一方、犬の甘噛みはコミュニケーションになっている。

 実は『コボちゃん』にもメタファーを使ったコミュニケーションの例がある。
 たとえば次のEである。

E

出典『コボちゃん』植田まさし/蒼鷹社
©UEDA Masashi

 女性が果物屋でパイナップルを買っている様子を見たコボちゃんは、自分も母親にパイナップルを買ってもらおうと輪ゴムで髪を縛る。このとき、まずコボちゃん自身がメタファーによってパイナップルと髪を縛った自分の頭を結びつけている。そして今度は、その自分の頭を見た母親がメタファーによってパイナップルを連想してくれないかと期待しているわけだ。コボちゃんは母親の頭の中でも、メタファーが無意識的に行われることを知っていると言える。
 前掲したA~Dの例はすべて、キャラクターが何かを見て、期せずしてそこから食べ物を連想し、そして実際にその食べ物を食べたり食べようとしたりする。だがこのEでは、コボちゃんが意図的に、自分の母親にA~Dで起きたパターンを経験させようとしている。
 
 このEがA~Dと他にも違っているのは、Eにおいてはじめてメタファーをコミュニケーション手段にもしている点だ。コボちゃんは母親に、自分の頭そのものを見せたいわけではない。もし頭に怪我をしたり出来ものでもできたのなら頭自体を見てもらいたいだろうが、ここではそうではない。
 これは、甘噛みをしてくる犬とやっていることは本質的に同じである。どちらも、提示しているもの自体とは別のことを伝えたがっているという意味で共通している。そして受け手が、その別の意味で受け取ってくれるであろうと期待している点も同じである。

ユーモアと病理 情報の重層性

 ここまでの考察を踏まえると、メタファーがときにユーモアにも病的にもなる理由がわかる。 

 たとえばコボちゃんが、母親にパイナップルを連想してほしくて頭を見せたのに、それこそ出来ものでも見つけられて病院に連れて行かれるとしたら、それは「ユーモア」になるだろう。そのときコボちゃんは、母親に比喩的な意味に受け取ってほしかった情報をそのままの意味に受け取られたことになる。 

 逆に、たとえばコボちゃんが頭に怪我をし、その頭を母親に見せるとする。そのとき母親がメタファーによって(・・・この子の頭はなんだかスイカに似ているわね。そう思うとスイカが食べたくなってきたわ。スイカを買いに行きましょう)と考えたとする。そして怪我をしているコボちゃんを置いてスイカを買いに行ってしまうとしたら、それはいろいろな意味で破壊的である。当然これでは笑えず、病的ですらある。 

 情報はほぼ必然的にそのままか比喩的かという重層的な意味を持つと言える。そして情報が発信されるとき、その発信者は受信者に対しある「期待」をしている。そして発信者によるその期待が裏切られたとき、ユーモアにも病的にもなるわけだ。 

 たとえば小説や映画のタイトルはメタファーだらけである。本屋の小説コーナーで『羊たちの沈黙』というタイトルの本を見て、文字通り羊の生態について説明している本だと解釈する人は、少なくとも大人であればほとんどいないだろう。このとき作家は、読者がタイトルを文字通りではなく比喩的な意味に受け取ると期待していることになる。
 だが同じタイトルの本が生物学のコーナーにあったとしたら事情が変わってくる。その本は本当に羊の生態について書かれているかもしれない。
 すると我々は、同じ本屋でも、コーナーによってタイトルの意味を文字通りか比喩的かのどちらに受け取るべきかを器用に、かつほとんど無意識的に切り替えていることになる。重層的な情報の世界で生きるとき、その切り替えの速さと柔軟さがどうやら重要であるらしい。 

 そもそも情報の発信者は、その情報を確実に「そのままの意味」か「比喩的な意味」かのどちらかに限定した上で発信できるだろうか。

 たとえばモールス信号のような記号化された情報は、そのまま受信して解読されることを期待して発信される。だがそれも結局は受信者次第になる。信号から解読されたその意味が、受信者にとって不可解だったり意味不明だったりする場合、その受信者は(これは文字通りの意味ではなく比喩的な意味なのか?)と考え出すだろう。

 逆に、発信者が比喩的な意味に受け取ってほしくてわざと文字通りでは不可解な情報を送ったのに、受信者側が頑なに文字通りの意味で解釈しようとするかもしれない。 

 つまり情報はほぼ必然的に重層的にならざるを得ず、その重層の中で齟齬が起きる可能性を排除できないと言える。

宗教におけるメタファー メタファーを鍛える?

 宗教の儀式はメタファーにあふれ、メタファーによって支えられていると言っても過言ではない。ベイトソンが例に挙げているように、キリスト教のミサではワインを“キリストの血”として、パンを“キリストの身体”として聖職者が信徒に与える。一説には、キリスト自身がいわゆる「最後の晩餐」のときに、弟子たちに向かってこれからはワインをわたしの血として、パンをわたしの身体として食べなさい、と言ったことがその起源だという。このとき聖職者は、信徒が単なる食事としてそれらを与えられたと理解してほしいのではなく、比喩的な意味に受け取ってほしいわけだ。宗派によってはメタファーではなく、ワインはキリストの血そのものであり、パンはキリストの身体そのものだと信じるものもあるという。ここにおいて、メタファーは完全に不文律化し硬直化してしまっている。そこには、信徒がワインとパンを単なる食事として解釈する自由はない。もしそう解釈したければ、儀式から離れる以外にほとんど手はない。

 同じ宗教でも、臨済禅の公案集である『無門関』には、その硬直化とは真逆の例だと思えるものがいくつもある。『無門関』にもメタファーがあふれているが、そのほとんどは儀式化したものではなくコミュニケーション手段として使われている。

 たとえば『世尊、花を拈ず』である。

 釈迦牟尼世尊が、昔、霊鷲山で説法された時、一本の花を持ち上げ、聴衆の前に示された。すると、大衆は皆黙っているだけであったが、唯だ迦葉尊者だけは顔を崩してにっこりと微笑んだ。そこで世尊は言われた、「私には深く秘められた正しい真理を見る眼、説くに説くことのできぬ覚りの心、そのすがたが無相であるゆえに、肉眼では見ることのできないような不可思議な真実在というものがある。それを言葉や文字にせず、教えとしてではなく、別の伝え方で摩訶迦葉にゆだねよう」。 

 無門は言う、「金色のお釈迦様もなんと独りよがりなものだ。善良な人間を連れ出して奴隷にするかと思えば、羊の肉だなどと偽って狗(犬)の肉を売りつけなさる。とても並みの人間に出来る芸とは言えぬ。だがしかし、もしもあの時その場の大衆が皆な一斉に微笑んだとしたら、正法眼蔵とやらいう結構なものをどのように伝えたであろうか。また逆に、迦葉尊者を微笑ませ得なかったとしたら、それをどのように伝えたであろうか。そもそも正法眼蔵というようなものを伝達できるとすれば、お釈迦様は一般大衆を誑かしたことになる。また伝達出来るものでないとすれば、どうして迦葉尊者だけに伝授を許されたのであろうか」。

 頒って(うたって)言う、

花などひねって
尻尾丸出し。
迦葉の笑顔にゃ、
手も出せはせぬ。

『無門関』西村恵信訳注(岩波文庫)より

 これはブッダが教団の後継者を指名した際の有名なエピソードがそのまま公案になっている。このときブッダが花を掲げたのを見て、弟子の誰もが「だからなんなんだ?」と思ったはずである。つまりブッダのその行動は、そのままの意味ではないとはわかったであろう。もしそのままだとしたら「これは花だよ」だとか「この花はきれいだね」だとか「この花が咲く季節になったね」といった意味にしかならないだろう。

 この公案の解釈として、ブッダがテレパシーのようなもので摩訶迦葉(マハーカッサパ)に何かを伝えたとするものがあるようだが、だとしたらブッダが花を掲げた意味が無くなるだろう。するとやはり、ブッダの行動は比喩的にしか解釈しようがないと思える。そして摩訶迦葉にだけはその比喩的な意味が理解できたからこそ、彼だけが笑ったと解釈できる。 

 この公案を解説する無門は、ブッダによるその不思議な行動の意味を考えろとは述べていない。だが、公案によってははっきりそう書いているものもある。 

 たとえば『南泉、猫を斬る』である。

 南泉和尚は、たまたま東西の禅堂に起居している門人たちが、一匹の猫をめぐってトラブルを起こしているところに出くわされた。彼は直ちにその猫をつまみ上げると、「さあお前達、何とか言ってみよ。うまく言えたらこの猫を救うことが出来るのだが、それが出来なければ、この猫を斬り捨ててくれようぞ」と言われた。皆は何も言うことが出来なかった。南泉は仕方なく猫を斬り捨ててしまった。晩になって、高弟の趙州が外から道場へ帰ってきたので、南泉はこの出来事を趙州に話された。話を聞くと趙州は、履いていた草履を脱いで自分の頭に載せて部屋を出ていってしまった。南泉は、「お前があの場にいてくれたら、文句なしにあの猫を救うことができたものを」と言われた。 

 無門は言う、「何はともあれ、趙州が草履を頭に載せた意味は何であるかを言ってみよ。もしそのところをきちんと示すような一語が吐けるなら、南泉のやった酷い仕打ちもまんざら無駄にはならぬであろう。しかし、もしそれができぬとなれば、これは危ないことだ」。

 頒って言う、

かの趙州がいたならば、
やり方すっかり逆のはず。
刀を奪い去られては、
南泉さえも命乞い。

『無門関』西村恵信訳注(岩波文庫)より

 この公案では無門が、趙州によるその不思議な行動の意味を考えろと書いている。これはメタファーの観点からすると、先述したワインをキリストの血そのものだとするキリスト教の宗派とは対極的である。その宗派ではメタファーの結果、言い換えればそれが何を象徴しているのかをあるもの以外ではありえないと教え、さらに象徴と物を同一視までする。一方、無門はメタファーの結果を教えるのではなく、自分でメタファーを行って答えを導き出せと言っている。 

 趙州によるその行動は、そのまま解釈しようとしてもほぼ意味不明である。趙州は南泉に「寒いときは草履を頭に載せると温かいですよ」と言いたくてそうしたわけではないだろう。あるいは「わたしは草履を頭に載せて歩けるほどバランスがいいんですよ」でもないだろう。

 我々は普通、そのままでは意味不明の行動を示されたら比喩的な意味を考え始める。つまり趙州はその行動の比喩的な意味を南泉が悟ると期待してそうしているのだろうし、南泉もそれを悟ったからこそ「お前があの場にいてくれたら、文句なしにあの猫を救うことができたものを」と言っているのであろう。 

 以下はあくまでもわたしが考えたことであっていわゆる野狐禅でしかないが、なんらかの参考にはなるかもしれない。 

 南泉は猫をつまみ上げて「何とか言ってみよ。うまく言えたらこの猫を救うことが出来るのだが、それが出来なければ、この猫を斬り捨ててくれようぞ」と言ったが、弟子たちが沈黙しているため猫を斬ってしまうのである。だが『無門関』では、言葉で語っては駄目だが、かといって沈黙しても駄目だと他の公案で繰り返し強調されている。だとしたら南泉は、弟子たちが語ることにも沈黙することにも低い評価を与え、言葉を用いない比喩的なメッセージをこそ高く評価するべきではないか。つまり弟子たちに求めたことが転倒していないか。だが言語を用いないメタファーで表すことが重要である、という主張内容を言語で表したのでは主張の内容と表現手段が一致しない。だから趙州は上記の主張内容を、本来足に履くものであるはずの草履を頭に載せる、という行動によって言語を用いずに比喩的に表現したのではないだろうか。 

 この解釈が正しいかどうかはともかく、一つ言えることは、趙州が取った行動の本質は先述したEにおけるコボちゃんと同じである。コボちゃんが母親に頭自体を見てもらいたくてそうしたわけではないように、趙州も草履を載せた頭そのものを南泉に見せたいわけではないからだ。 

 それにしても、なぜ臨済禅ではこうもメタファーを重視するのか。 

 一つの仮説として、悟りの知恵はメタファーによってしか知ることができないのだとすれば説明にはなる。

 何度も書いてきたようにメタファーは無意識的に行われる。「ヘビは生命力である」という一種の答えも、意識が知らない間に結び付けられていたのである。すると悟りの知恵も、無意識が何かと何かを結びつける形で得られるのかもしれない。たとえば「真の自己とは何か」という問題に無意識がメタファーによって答えを得るのだとすれば、禅が意識を滅却しろと強調する理由も、そして意識にはあるとき突然答えが得られたと感じられる理由も説明できる。 

 メタファーは誰にでも、無意識的にも行えるためそれを「鍛える」という発想は持たれにくい。だが臨済禅は公案に取り組むことでそれを鍛えようとしているように見える。夢辞典にまとめられているようなものは誰にでもできるメタファーの結果だが、メタファーが鍛えられてはじめて結び付けられるものがある、と仮定すれば臨済禅におけるメタファーの重視が説明できる。

 するとメタファーは無意識的で原始的で普遍的であり、さらに言えば究極的な思考パターンであることになる。 

 

 基本的な思考パターンの中でまずメタファーの説明をした。次にアナロジーについて説明するつもりである。 

 

2021 8/18

◯引用文献

・『無門関』(西村恵心訳注 1994年)岩波書店
無門関|Amazon

◯参考文献

・グレゴリー・ベイトソン&メアリー・キャサリン・ベイトソン『天使のおそれ-聖なるもののエピステモロジー』(星川淳訳 1992年)青土社
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